情に燃えて
015:爛れた皮膚
差し込む明かりに陰りが見えたと思うと硝子へ叩きつける雨が降り出す。ばらばらと鼓膜を震わせる雨滴に耳を澄ませる。榛の双眸をすがめて雨空を睨む。なすすべもなく雨に打たれた時を思い出す。何が原因だったかもう朧気だというのに打ち付ける雨の微温さやおきどころのなさばかりが感情を抉った。身じろいで枕へ顔を埋める。鼻先をくすぐる香りはリョウのものではない。四肢を動かすと裸身であることが思い出された。肩や背中に敷布の感触がある。体温に馴染んだ敷布は融け合っているのに別離した途端に不快を帯びる布地になる。毛布をかぶろうとして声をかけられる。少年期の名残のように響きが高い。平素話す声は驚くほど静かで安定しているのに、交渉や嘲弄の際の愉しげな響きとしてまだ高さが残っているのだ。
「アキト」
リョウが体を起こす前にアキトが寝台へ腰を下ろした。ぎしりと重みで軋む。体を丸めるリョウの肩をアキトの手が撫でる。揃いの制服を真っ当に着こなすアキトは肌の露出が少なく触れ合いもしない。体中を撫で回す肌の感触にリョウはいつも怯んで躊躇う。アキトの口元が微笑う。一瞬だけ見せる弛みのように穏やかな笑みだ。リョウの目線を追って窓の方を向く。鎧戸も遮光布も下ろしていない硝子にはしきりに雨が吹きつけた。老朽の結果として溝が緩む所為かがたがたと音がする。雨に濡れた時の寒さを思い出して身震いする。暖房器具を動かしていないから部屋も気温が低い。裸身で転がっていれば寒いのは当然だった。交渉の後の気怠さでリョウは眠りたかった。毛布を被り直そうとする毛布が引っ張られた。おい寝るな。なんだよ。裏社会で通用してきた睥睨もアキトは毛ほども感じないようで態度が変わらない。寝るんじゃない、そろそろ時間だ。時間?
「シャワーの使用申請をしてある。使用にあたってキィが必要になるからな。そのまま寝てもいいがオレは浴びてくる」
舌打ちしてリョウは体を起こした。脚の間や胸部は情交の後も生々しく乾燥や剥離や湿り気がある。脱ぎ散らかった制服を身に着けていくのをアキトは黙って眺めている。
「見てんじゃねぇ」
憤りに低い声にもアキトは息を呑みもしない。
「言っておくがオレが知っているキィはひとつだけだし早々長い時間使えるとは思えないんだが」
だから早くしろ。ばっさり言い捨てられてリョウは溜め息と一緒に何かも吐き出した。なんとか取り繕うとアキトを小突いて通路へ出る。シャワー室へ向かうまでにアキトの指が何度もリョウの脇腹を掴んだりくすぐったりする。その度に跳ね上がってはアキトの腰を蹴りつける。
アキトが言ったとおりにシャワー室は完全に静まり返っている。時間帯も遅い。どういう理由で利用申請をしたのか全く判らない。それでもこの団体の所属はリョウよりアキトのほうが古株だ。リョウが知らぬ手順でもあるのだろうと深追いはしない。色と質感が違うパネルを跳ね上げる。給湯許可にキィの認証が必要だった。おいさっきのキィなんだって? シャワーのスペースを見まわっていたアキトが戻ってきた。本当にオレたちしかいないな。どうでもいい。アキトは二桁になるアルファベットと数字の羅列を打ち込んだ。迷いも淀みもない。使い慣れた無関心さで設定をいじる。熱いほうがいいのか。微温くなきゃいいぜ。アキトが何やら設定をいじるのを放り出してリョウは早々に服を脱ぎだす。鏡へ映り込む自分の姿に唾棄する。
リョウがこの団体へ所属する前は何でも自分で手に入れてきたし嘲笑など赦さなかった。暴力と破壊で成り立つ世界に情はなくて、ただひたすらに得るために殺す。その位置が高みへ昇りつめるほどに危機も増えた。寝台まで引きつけておいてから覆す。割れた硝子の破片や筆記具を使う。ペーパーナイフはなかなか便利だ。リョウは抜き身をさらすこともなく上り詰めて、それは純粋に破壊の能力だ。その体をあっさりとアキトが瓦解させた。しっかりと退路を断っておいてからのアキトの手口は執拗で陰湿だ。だがアキトはそんな執着を窺わせない。どこまでも淡白な口調と態度でそれは慇懃だ。
嘆息して一息に脱いでしまうとシャワースペースへ行く。把手をひねる前にアキトへ声をかける。
おいもう浴びて大丈夫なのかよ。かまわん。終わった。アキトの手がパネルを閉じて服を脱ぎだす。リョウはそれを確かめてから把手をひねった。冷たい滴が次第に熱い奔流へ変わる。ひととおり体を濡らしてから洗浄剤や石鹸がないことに気づいた。不特定多数が利用する場所として備えがない。必要とするものが持ち込むのが暗黙の了解だ。アキトを探した。隣のスペースへ入っているか未だ脱衣場にいるか。
「おい、石鹸とか持ってないか」
「お前は本当に抜けているな」
声が思ったより近くで怯んだ。体を反転させると裸身のアキトが立っていた。その手にはボトルがある。繊細な手入れが行き届かない所属として髪も体も洗えればいいという見解であるから石鹸一つで頭から足先までを洗う。アキトが持っているのはそれを液状にしたもので髪も体も洗うタイプのものだ。
アキトはリョウが使っているスペースへ入り込むと手のひらへ洗浄剤を取る。ボトルを所定の置き場所へ置くと丁寧に泡立てる。アキトの繊手はみるみる見えなくなって泡がぷくぷくとあたりへ散った。濃密な泡の香りと気配に目眩がする。換気をしたくて壁を探る指先さえ危うい。アキトは臆面もなくその泡をリョウの体へなすりつけてくる。
「おい」
「黙っていろ。時間帯が遅いから静かにしろと注意を受けている。警邏が来たら叩き出されるぞ」
うぐぅと猫のように喉を鳴らして黙りこむ。しばらくアキトが洗浄剤を泡立ててはリョウの体を撫でるのを繰り返す。ふうっとアキトがこらえきれずに噴出して微笑う。口元が弛んでいる。
「息を詰めると感じるぞ」
ぬるん、と脚の間を撫で回されて嬌声を押し殺す。がた、と後ずさると背中がタイルへぺたりと張り付く。シャワーの熱さなど知らぬげに冷たいそれに震え上がった。リョウ、どうした? アキトは口の端を吊り上げてぬるぬるとした泡まみれの手を滑らせる。腰骨の尖りを爪が圧し、臍を抉って抜身を握る。その力加減は泡のせいで狂わされて思わぬ深みと浅瀬をめぐる。アキトの手がにゅうと伸びてリョウが体をすくませる。脇においたボトルへ伸びると新たに洗浄剤を手に取り泡立てる。
「お前の髪は脱色しているのか?」
「…地毛だけど」
くふんと笑われて怒鳴りつけたくなる。それでも腹に力が入ると曖昧な刺激が明確になりそうで怖い。新しい泡でアキトがリョウの髪をガシャガシャ洗う。おい待て、泡が。そら、流すぞ。目をつぶれ。沁みても知らないからな。シャワーの奔流のもとへ引っ張りだされて流水が泡を流していく。リョウは言葉に従って目を閉じている。鼻梁や口元のくぼみを撫でて耳の裏やうなじをドロリとした感触が流れていく。髪をかき混ぜられてそれが洗われているのだと遅まきに気づいた。そういえば他人に髪を洗ってもらった経験がない。散髪などは自分で済ませていたし身の回りの世話くらいは自分で焼く。
人に洗われる心地よさに酔ってしまう。アキトの細い指が髪を洗ってからリョウの体を撫で回す。お前の体っていいよな。頤を捕らわれる。そのまま唇が重なった。結合部を隠すように泡や水流が流れこむ。押しのけようとしてぬるりと滑る。アキトの手はしっかりとリョウの頤を抑えていて逃さない。髪の中や耳の裏を撫でる温水が妙に生々しい。目を開けようとするたびにこめかみや目縁を流れが横切る。
雨の中で何を考えてたんだ? 不意の問いに答えない。薄く開く視界へ流れ込む温水は泡を帯びていない。涙のように目縁へたまってから滑り落ちる。
「…別に」
「別にって顔じゃなかったが。お前、本当に団体のトップだったのか? 隠し事が下手すぎる」
「どうでもいいだろ」
しゃべるたびに流れが口の中へ入る。時折咳き込んで吐き出すのをアキトは微笑んで咎めない。
泣きたいって顔だったぞ
リョウの目が見開かれて集束する。それでも流れこむ水流にすぐ目が眇められて指や手が水を払おうとする。
髪や肩や首を濡らす雨垂れや。服を濡らしていく雨滴や。
雨の日に独特の麝香のような香りにむせて吐いて、リョウは。
さびしい
「――やめ、ろ!」
反射として薙いだ腕がアキトの体を払いのける。肉や骨に響く一撃にアキトは眉を寄せもしない。
「素直に認めろ。そのほうが楽だぞ」
爆発の前姿勢として屈むリョウの体をアキトがあっさり仰け反らせた。首を掴んで脊椎を湾曲させる。気道を潰されてリョウが喘いだ。アキトは頭からシャワーの温水を浴びながらそれを苦にするでもない。目を閉じもせず口元も弛めたままで微笑んだ。長く跳ねる三つ編みを咥えると片手で器用に結い紐を解く。シャワーの流水で三つ編みが解かれて弛く巻きぐせのついた長い髪がアキトの肩や脇からリョウの目に映る。紺紫の髪は濡れて重くなり漆黒に沈む。
アキトが指を緩めた瞬間に激しく咳き込んだ。濡れ髪を引っ張られて丸まろうとする体を伸ばされる。腹部に突き抜ける痛みが走った。アキトの手は執拗にリョウの体を撫で回す。アキトが触る場所から融けるようだった。湿気で皮膚が密着して不意に肉まで抉られるような感覚に襲われる。火傷のように後からじわじわとした痛みや侵蝕を繰り返す。
「泣きたいと感じるなら素直に泣いておけ。殺してもいいことはない」
榛の双眸を眇める。唇が戦慄く。ごくりと動いた喉仏。泣き声はアキトの唇の中へ飲み込まれていく。落涙を洗い流す温水と間近に見える蒼い瞳。髪と同じで群青の黒みを帯びて艶めく。
「泣け」
アキトの手がずぶりと腹へ突き入った気がした。泣き声も嗚咽も嬌声もアキトがキスで呑み込む。リョウは身震いしてその抱擁を受入た。
《了》